10年程前になるが富士の絵の購入の依頼があり、富士を描き始めた。
兄と姉の別荘が上野原にあるため、山梨側の富士を描いていた。
山梨側の富士は何となく暗く、富士が湖近くまで裾野を伸ばし、圧倒的な大きさだった。
第一印象で「負けた」と 、私には富士は描けないと感じた。
それもかれこれ6、7年描いていたが色が ″じみ″ で気に入らなかった。
元々は、フランスの絵を描き、華やかな絵が好きで、自分はフランス人の生まれかわりと勝手に思い込んでいた。
2、 3年前のある日、東京駅(靴描きの職場) で後援会長で名古屋の財界で有名な丹羽氏に会った。
富士山の話をしていたら、氏から「富士は昔から太平洋側から見た富士をよし(良)とする」と言われた。
考えてみたら太平洋(東海)側から見た富士をまだ描いていなかった。
意を決し、箱根の富士を描こうと思い車を借り大観山に行った。
渋滞のため午後の遅い時間に着いた。
あいにく富士は全く見えなかったが、せっかく来たのだからイーゼルだけでも立て周りの景色だけでも描こうと色を置いた。
描き始めて、1、2分したら、にわかに雲が割れ光がさし込んできた。
今だかつて見たことのない絶景の富士が現われた。
するとどこからともなく「パブロ君、だいぶ苦労したネ、私を好きな様に描いていいですヨ」と、やさしい女性の声が聞こえて来たのだ。
私は夢中で筆を走らせた。
記念すべき第一作「早春の春」F15号はまたたく間に出来上がった。
暗くなるまでにまだ少し時間があったのでP10号の絵も急いで描いた。この感覚を覚えておくためだ。
後日、この作品2点は人手に渡ってしまった。少し残念である。
私は富士の霊から描いてよいとお許しいただいたと確信している。
いわば免許皆伝である。
―― パブロ賢次 – 赤平健二